2026年9月28日

彼の競争

萩の川にて

 最近、ある芸人のことを考察している。

 もともと単純に好きで言動に共感する部分も多い方なのですが、番組やポッドキャスト、エッセイなどで彼の情報を得るに従い、社会的な評価に対してぼくとは対照的な気質のあることが見え始めたことが考察のきっかけでした。

 その芸人は評価を得ることに対して非常に真摯で、そのせいで擦り切れていっているようにも見えるのに対し、ぼくは他者からの評価に対する諸々が希薄(立場上の正当性がない方から根拠のない助言をされることなどはマナー的な意味で嫌いです)なので、その行動原理が分からず単純に彼のことが心配でした。しかしそのうち、彼の行動原理が分からないということは社会的に言えばぼくの方の問題なのかもしれないと思い始めた。

 仮にそうだとしてもそれを解決したいとは思わないのですが、ぼくの問題である可能性がある以上、社会的な正しさの基準として彼の行動の背景を理解しないといけないと思ったというのが考察までの経緯です。

 結論から書くと、彼が社会的に認められることを自己実現と捉えてきたことが背景にあるという仮説に落ち着きました。

 現代社会において芸人として社会的に認められるというのは、観客を笑わせるための技術を備えた個人として経済的な価値がある状態のことを指すと思います。技術そのものではなく技術を備えた個人としての経済的価値が論点になるという意味で、言わば個人を芸人という形態の商品にする行為です。

 ぼくは社会にも経済にも全く詳しくないですが、経済的な価値は他との比較によって大小が決まる相対的かつ流動的なものだということは分かります。多分資本主義はそうして価値を追求したり創出したりして成立しているのだと思うので、つまり競争が支えている社会です。

 その社会において、彼の自己実現の定義は至極真っ当だと思います。芸人として評価を得ようとすることは、言い換えれば競争に勝とうとすること、経済効果の観点で競争力のある芸人になろうとすることです。その結果いま彼は経済的な価値を生み出していて、それは資本主義において個人が社会から求められていることだと思います。

 そんな訳で、やはり社会的に問題があるのはぼくの方でした。評価と価値を追求することが前提の社会でそれを欲しないという社会不適合です。競争したいともしなければいけないとも思えないぼくがこの社会で暮らしていて構造的な問題が起こらないのは、彼のような方が擦り切れながら競争してくれているからなのかもしれません。