2025年12月1日

転覆失敗

先日の弾き語りの模様

 これまで一切思ったことがなかったのですが、ここ最近、自分の新しい曲についてその背景などを説明したくなる。しかし曲のみで伝わらなかったものを説明で補足することは無粋だと思ってきたので、それをなし崩しにするのにかなり抵抗感があり、我慢しています。そこで今回は説明したいという立場から、曲の説明を無粋とする観念を覆せるか試してみたい。

 まず、ぼくがそれを無粋だと思っていた理由は大きく分けて以下の三つです。

(一)言葉で説明できる主題なのであれば曲にする必要がない。
(二)曲に不足があるのを認めることになる。
(三)正解が生まれることで解釈の可能性を否定してしまう。

 いざ考えてみると、(一)と(二)はとりあえず覆りました。

(一)曲を作りたいという気持ちが前提にあるので、曲の存在意義は問題にならない。
(二)曲は感覚や心理の表出で、その本質である抽象性は理解ではなく印象に依存している。印象を正確に説明することはできないので、説明によって曲の本質が決定的に損なわれることはなく、曲自体に不足があることにもならない(仮に歌詞の内容が論理であったとしても、それをあえて歌詞にする行為は抽象性の付与なのでどちらにせよ本質は抽象性にあると言える)。

 では(三)について考察します。

 たしかに、作り手による説明は解釈の可能性を否定することにはなります。例えばぼくが月について婉曲的に書いた一節があるとして、月のことだと説明した段階でぼくの創作意図に対する聴き手の解釈は月に一本化される。しかしこれはあくまでも作り手至上主義、作家論における話です。

 これをテクスト論(作り手の意図や背景を無視し作品中で可能な解釈を正解とする考え方)に基づいて考えると、仮にぼくが月について書いていたとしてもそんなことは関係ない。月を恋人と解釈できる歌詞なのであればそれも正解。つまり無数の解釈が存在するという聴き手至上主義です。

 このままでは人それぞれというつまらない結論になってしまいそうですが、作家論がその性質上テクストのみからなる解釈を否定せざるを得ないのに対し、テクスト論的解釈が作り手の解釈を内包できることはたしかだと思います。テクスト論においては、作り手の解釈もテクスト上の問題として他の解釈と同等と見なすことができるからです。

 つまり、仮にぼくが自分の曲について説明して作家論的解釈が一本化されたとしても、テクスト論的解釈においては解釈の選択肢が追加されただけで、そこに何の影響も及ぼさないことになります。そして作家論的に聴くかテクスト論的に聴くかという選択は完全に聴き手に委ねられるので、ぼくの手の及ぶことではありません。

 そう考えると、作家論という一元的な解釈の方法に基づいて説明を拒むことこそ可能性の否定なのかもしれない。

 これで理屈上は観念の転覆に成功したと思います。ただそれでもいま自分が抱く説明への抵抗感を拭いきれていないのは、そもそもぼくが作り手の人間性と切り離して作品を鑑賞することができないという、今回の考察の必要性を根幹から揺るがす問題があるからに他なりません。