2025年11月20日
逆転した訳です
そう言えば、このホームページを開設してから一年と少し経った。最近この日記を読んでくれているという声をいくつかいただいたり、自分が去年書いたことを忘れてしまっていたり、定期的な更新によってGoogleからの評価が期待できたりもして、この日記の意義を実感することが増えてきました。そんな訳で今回も書いていきます。
今年は結果的に作品を出さない年になりました。ただ、まとまった曲数の入った宅録作品を出すために制作を続けています。その中で、自分が作詞のための題材に困っていることに最近気付きました。ぼくは気持ちが内的に動いたときそれを曲にする場合が多いのですが、改めて考えるとそういった気持ちの動きが以前ほどない気がする。
その理由ははっきりしています。経験を積んだことです。以前なら傷付いていたような出来事も、そういうものだと思えてしまっているので気持ちが動かない。これは自分のために良いことですが、作詞作曲においては障害となりうるようです。
恋愛をしていれば話が変わってくるとは思うものの、これは偶発性による部分もあるのでとりあえずどうしようもない。この間、先輩から恋愛について質問されこの旨を話したところ、言い訳にしか聞こえないと一刀両断されましたがやはり平気でした。
そんな話は置いておくにしても、とにかく曲は作り続けたく、主題を継続的に捻出しなければいけない。そのためには気持ちの静動に関係なく、起こった出来事や鑑賞した作品をサンプルとして題材にしていくしかない。そういった訳で、日常の中で違和感のあった出来事(先輩とは無関係)についての歌詞を先日書いてみました。
ただその出来事で気持ちが動いている訳ではないので、それが起こったという事実と、起こりえた展開の想像と、過去に別の出来事に対して感じた気持ちを混ぜ合わせて書くことになりました。既に宅録で制作途中の曲だったのでその歌詞で仮歌を録って聴いてみて、自分でも驚いたのですが、前回の日記に書いた暗喩による共感が自分の歌詞に対して起こり、感動してしまいました。気持ち主導で書かないことによって、自分にとっての事実関係や時系列があいまいになり、より第三者的に聴けるようになるらしいです。
前述したように、これまでぼくにとって曲作りはほとんど気持ちの動きを残すためのものだったので、今度それが気持ちを動かすためのものに逆転した訳です。曲作りの新しい意味が偶然かつ唐突に見つかり、しかもそれが従来とは正反対のものだったことに、とても驚きました。