2025年6月19日

体感時間の妥当性

東京遠征で訪れた高井戸にて

 こんにちは。これを書くのはかなり久しぶりです。いざ書こうと思ったら、日記と呼ぶには間隔の空き過ぎた代物になってしまっていることにまず気付かされました。

 間隔が空いてしまった理由は単純に忙しかったからです。3月から4月に掛けて四週連続でライブがあったり、弾き語りの東京遠征があったり、最近は来月に控えている「畦」というイベントの準備をしたりしていた。
 あとは宅録で制作をしています。既に一曲録り終えていて、いまは二曲目の骨格ができたところです。この二曲目はゴールデンウィーク明けから一ヶ月間煮詰まってしまっていました。

 そんなことをしていたら前回から四ヶ月経過していた。これはおかしい。なぜならぼくは時間の経過を妥当に体感する方法を体得しているはずだからです。

 高校生のとき帰宅部(写真部の幽霊部員、iPhone7で撮った写真を一度だけ何かに提出したけど幽霊過ぎてその結果を知らないことにいま気付いた)だったぼくは、友達と一緒に帰りながら時間の経過が早いという話をよくしていました。最初は友達と一緒にそれを面白がっていたのですが、ぼくはだんだんそれが面白がっていていいような事態ではない気がしてきて、どうにかして時間の経過を妥当に体感してやろうと、生活の中の時間を意識するタイミングで逐一出来事を振り返るようになりました。

 いくら時間の経過が早いと言えど自分が過ごした時間が存在することに変わりはないので、例えば、もう金曜かとふと感じたときに月曜からを一日ずつ振り返ってみれば、五日分の出来事が蓄積していること、つまり今日が金曜であることの妥当性を実感できるわけです。ぼくはこれを繰り返すことによって時間の経過を妥当に体感しながら過ごすことに成功しました。

 ただこの四ヶ月間は、恐らくその振り返りの繰り返しが難しいくらいに忙しかったのだと思います。これはつまりどういうことかと言うと、これまで単純に暇だったから時間の経過を妥当に体感できていた可能性が否めないということです。

 そんな結論は嫌なので、振り返りの繰り返しの一環として、日記と呼べるくらいの間隔でこれを書いていければと思います。